春待つ
烈毘沙。毘沙丸交神前。
一
冬の訪れは動物達が知らせてくれる。百舌が獲物を枝先に仮置き、栗鼠は木の実を土に埋める。冬を越え、春を迎えるため、彼らは皆、備えを始めるのだ。
「どうしたの、兄さん。そんなにかしこまって」
「……今月の、オレの交神について話したくて」
木登り好きのこの兄も動物達に感化されたのだろうか、突飛なことを言いだすものだ。
「なに、兄さん。好きな神様でもできたの? それとも、一番美人の神様にしてくれ、とか?」
冗談半分の言葉に、しかし返答はない。見ると兄さんは、じっとうつむいたままでいる。心なしか肩に力が入っているように思える。顔も真っ赤だ。
「え? 本当に好きな神様の話?」
「……ダメかよ」
「いやいや、悪くはないよ。……そっか。つい先月にはお業さんの服に喜んで鉄砲水をぶち撒けていたような兄さんがねえ……」
「それとこれとは別っていうか、その」
小さい身体をますます縮こまらせる兄さんに、いつもの活発な面影はない。ちょっとかわいそうに思えてきた。
「で、どの神様がお気に入りなの」
神様の姿が描かれた絵巻を取り出す。兄さんはその中でもとびっきりの小ささと、それに似合わぬ仰々しい装束を纏った一柱をそっと指さした。
「卜玉ノ壱与様、ねえ。この人がいいんだ」
「ああ。決めてたんだ」
「前から?」
「……うん。ダメ、か?」
兄さんはイタズラが見つかった時の子供のような目をして、こちらを窺っている。まあ、兄さんは未だにイタズラをしたりするんだけど。
「じゃあ兄さんは今月壱与様と交神ね」
「いいのか?」
「いいのかって、なんで?」
「だって、豪兄の時だって、こなみ姉の時だって、神様の能力とか考えてたし……」
「この神様だったら、素質的にも文句なんてないよ。それに、二人の時だって最後は本人がいい、って言ったから決めたんだ。好みをひっくり返してまで神様を押し付けようとは思わないよ」
これは本心だ。兄さんや姉さんは鬼との戦いに明け暮れて、私が迷惑をかけたりもして、ずっとゆっくり落ち着く暇なんてなかっただろうから、交神の時くらい人並みの幸せを感じてほしかった。そして、それは毘沙兄さんも同じ。
「そっか……そっか」
兄さんは何度も頷くと、にっこり笑って姿勢を崩した。
「あいたたたた……足しびれた」
「慣れない正座なんてするからだよ。……しかし兄さんも恋ですかあ……大人になったねえ」
「オレの方が年上だぞ」
「でも私の方が背が高いし、京の乙女達からも付文を沢山貰ってる」
「それは言うなよ……」
少しいじめ過ぎたか。兄さんは時々すごく年上らしくなることがあって、私よりずっと大人なんだと思う。でも、本人には言ってあげないのだ。
しかし、いい気分になっているこんな時には、得てして思わぬ反撃を受けるものだ。
「じゃあ、烈香は気になってる神様、いないのかよ
「わ、私? 私はホラ、別に誰でも向うの方から頭を下げてくるさ」
「ふーん……」
「何さ」
「なにか隠してるだろ」
「そんなことないって」
「誰か好きな神様がいるんだろ」
「隠してないってば。……そうだなぁ……氷ノ皇子様なんかは、天界一の美丈夫ってイツ花も言ってたしなあ。地上一の美人の私にはぴったりかもね。今度解放しに行こうか」
「烈香」
声の質が変わった。私より、ずっと大人な兄さんの声に。
「お前、みんなには好きな神様選ばせて、自分だけは素質で神様選ぼうとしてるだろ」
……本当、私よりずっと大人だ。
「なんで、そう思うのさ」
「烈香は神様をウワサで選んだりしないから」
兄さんは、こともなげにそう答えた。わずかな抵抗も無意味だ。
「まあ……そう思ってるよ」
「なんで」
「それも当主の役目の一つなんだよ。一族を強くして、引っ張ってかないといけないしね」
不意に、ペチン、と弾ける音がした。軽く叩かれた頬からは、痛みよりもむしろ小さな衝撃と、兄さんの手の温かさが伝わってくる。
「あのな、烈香。何度も言ってるけど、お前ひとりで背負い込むことないんだぞ」
「でも」
「いいから。オレは烈香にも、ちゃんと好きな神様と交神してほしい」
「だからそんなの」
「いるんだろ? 烈香がそうしてくれないと、オレも、豪兄も、こなみ姉も、みんな悲しい」
そうまで言われては立つ瀬がない。私は小さくかぶりを振った。
「分かったよ……ありがとう、兄さん」
「それで?」
「それで……って?」
「こっそり教えてくれよ。烈香の好きな神様。オレ、誰にも言わないから」
そう言ってにっこり笑う兄さんは、いつもの兄さんだった。
兄さんの耳に口を寄せる。
そうして、小さく、あの人の名を、口にした。
二
「……そっか」
「うん」
「あはは、烈香、顔まっか」
「……うん」
「烈香も、もうすぐ交神だな」
「うん」
「早く見たいな、烈香の子供」
「……うん」
「オレに鍛えさせてくれよ」
「……うん」
「その頃には、もう春か。やっぱり、冬より春の方が暖かくていいよな」
「そうだね」
「春になったら、また木の上から夕陽を見ような。連れてってやるから」
「もう、一人で登れるよ」
私達の交神は、言わば冬への備えだ。新しい子が、一族の未来を拓いてくれると信じて、私達はじっと春を待つ。兄さんと、私と、まだ見ぬ兄さんの子と、私の子と。
春は、まだ遠い。