あと一歩、深く
黄流丸と奥義。
身が千切れるほどに、駆ける。力の限り、土を踏み込んで、はじく。
飛ぶ。
「それ」に一瞬で肉薄した俺は、しかし間を置かず、勢いのままに転げて地に臥せった。自らの速度をすら殺しきれずに、膝と脛が擦りむける。目の前のそれ――庭の巨木が静かに俺を見下ろしていた。
「……くそ」
誰に言うわけでもなく呟いたつもりの罵詈が、弱音が、思いのほか大きく秋空にこだまして傷口にしみる。
もう少しだ、ということは何となく分かる。しかも、どうすればいいのかも分かっている。大事なのは踏み込み。反撃を恐れずに最速で敵に飛び込むことが、却って柔軟な動きへと転じる勢いを生む。そう、理屈ではなんとでも言えるのだ。そんなことは分かっている。
だというのに、俺の体は必要な動きに、全力の速さについてこられない。ちょうど坂道をかけ下りた時のように、体がいうことを聞いてくれないのだ。
ここまでの構想をつかむのに、かなりの時間がかかった。あの時、若の奥義を目にしなかったら、きっと何もつかめないまま終わっていただろう。俺には強い慢心があった。はぜるに身のこなしを教えたのは俺だし、実際俺以外誰もはぜるの速攻にはついていけない。自分の長所を磨いていれば、きっと一族に貢献できると、そう信じていた。
でも。選考試合で見た、若の一瞬の動き。目で追うのがやっとだった。いくら細かい動きで撹乱しても、あれを撃たれたら俺は避けられない。急所をかばう暇もなく切り伏せられてしまうだろう。速さが売りの俺がこんな体たらくで、どうして皆の活路を拓いていける? どうして次の世代に来た道を託せる? あの、一瞬の速さだ。あれが要る。どんな敵にもついていける、どんな攻撃もかわす事が出来る、爆発的な速さが。
土を掴んで、立ち上がった。手が白くなるまで、震えるほどに握り込んだ。
来月には、大江山に登る。そうしてすぐに交神をして、俺の役目は、終わる。それまでに何かを、形に残さなければ。
――まだまだ、こんなものでは終われない。終わらせない。
身が千切れるほどに、駆ける。力の限り、土を踏み込んで、はじく。
飛ぶ。
ここだ。ここしかない。
・
ああ、視界がぼける。毎朝の走り込みの意味はあったのか? わからない。
身が千切れるほどに、駆ける。力の限り、土を踏み込んで、はじく。
飛ぶ。
しかし、それは中途半端な速度しか生み出してはくれない。逆に言えば、ここから蹴りを放つことなどはたやすい。ただ、それだけだ。くだらない一撃にしかならない。こんなんじゃ、だめだ。全然。
身が千切れるほどに、駆ける。力の限り、土を踏み込んで――
不意に膝ががくんと落ちる。目の前の景色がぐわっと揺れて空へ上る。そのまましゃがみ込むことも出来ずに、倒れ込んだ。力が入らない。立ち上がることもままならない。
口の中にじわりと鉄の味が広がる。ダサい。情けない。おちゃらけているくせして、中身すらも伴わないような男になるつもりか。
ふざっけんなよ。動けよ。
喉元まで出かかった言葉を、すんでのところで噛み殺した。一層錆の苦みが増して、気分が悪い。しかし大きな声を出せば虎が起きる。修業後に余計な疲れを与える訳にはいかない。
……今。今、掴まないと、二度と掴めなくなる。
あの子に、他に何を残してやれる? 死にゆく姿だけを見せてなんて、情けなく微笑むだけでなんて、終われない。
今、掴め。今。
・
迸る激流。呑み込まれる意識。生と死の狭間。こんなところに来たくはなかった。こんな恐怖、知りたくはなかった。
でも。
もしこれがあたしの、拳法家としての生きる意味なのだったら。この速さで、皆の活路を拓けるのなら。今日ここにいるのが、あたしでよかった。
あいつの一撃を叩き込むために、誰かがおとりにならなければいけない。あの激流をいなせるのは、あの人魚姫の殺意をかわせるのは、あたししかいない。出来るかもわからない。でも、やるしかないんだ。
身が千切れるほどに、駆ける。
少しでも深く、大きく踏み込め。ここで跳べなければ、未来はない。
大丈夫。失敗はない。蔵で見つけた大量の書き込み。何度繰り返したか。
……そう、ここしかない。
はじけ。
あの女が銛を突き出してくるのが見える。そのまま串刺しにでもしようって? あたしを誰だと思ってるんだ。なめるんじゃないよ。
銛の柄をはたき込んで、そのまま掴んだ。それを軸にして、全霊の蹴りを叩き込む。
「喰らえっっ!! 清香飛天脚!!」
神だろうと妖怪だろうと、あたしの速さについてこさせない。あたしの拓いた道に、指一本触れさせない。そこは、あいつが通る道だ。