垣根の垣根の百物語

PSP俺屍Rの自分の一族とか某inb氏の一族の話とか ネタバレあります。

交わる魂 ——1018年 5月

琳太郎、魂寄せ お蛍様と交神の儀。葵、自習。

 

 ただ家の奥に続くと見えた襖を通り抜けてみれば、そこになにもありはしなかった。
 見たことのある景色。ただ、無が広がる白い世界。白よりも白く、どこまでも塗りつぶされた空間が敷かれるのみであった。
 突然として目の前に人が現れる。それもまた、見たことのある女の顔だった。

 あの日。いや、あの時。俺は彼女を見て、何らの感情も抱かなかった。ただ目の前の景色と、流れ込む情報に困惑し、翻弄されるばかりであった。
 今はどうだろうか。あの時と比べ、何かわかっただろうか。恐らく、大した差はないのだろう。特に目の前に立つこの女神や夕子さんに比べれば、毛先ほどの知識も持ち合わせていないはずだ。それほどに今の俺達は蒙昧な稚児の如く、そして神や鬼は底知れない。つい先月に赴いた山は堆く、その鳥居は俺達を飲み込まんばかりに大口をあけている。
 だから俺は、それを掴むためにここに来た。俺たちは何なのか。交神とは何なのか。どれほどに朱点は強大で、どれほど俺達には時間が残されているのか。葵は、次の子は、生きて悲願を成す事が出来るのか。
 前に見たことのあって、円滑に話が出来そうな女神。素質が程よく、今の俺たちに不足する力を補ってくれそうな女神。
 そんなことを考えながら、俺は目の前の女神―—魂寄せお蛍様を、『選んだ』。葵に言ったことに嘘はない。俺は自らの不誠実さの代償として、子を、そして神を愛する義務を背負うこととなる。しかしそれは、今の不誠実を取り消すことにはならないのだ。木実さんも、葵も、俺をただ許してくれているが、次の子も、次の女神様も、俺を許し続けてくれるとは限らないのだ。その咎も、この呪いも、短い生涯に余りある楔となって食い込む。これをまた、自らの子に渡さねばならない。まだ幼い葵の横腹に深々と楔を刺すのは、他ならぬ俺の手なのだ。

 「私を選んでくださいまして、ありがとうございます。精一杯、役目を果たさせていただきます」

 お蛍様はそう言って、深々と頭を下げた。神たる彼女が礼を尽くせば尽くすほど、俗物たる俺の卑怯な策はあぶりだされるばかり。だから、俺は逃げようとした。

 「そのように頭を下げないでください。私からお願いするのです。……ただ、自らの為に」
 「……やはり、そう仰るのですね。木実様の言う通り。言葉を崩していただきたく思います。私にも、……そして、あなたの為にも」
 「仰る意味が、分かりかねるのですが……」
 「……ここでは、風情がありませんね。私の閨にお連れ致します。そこで、私の知る限りを」

 彼女が白く細い手を、少し遠慮がちに差し伸べる。宙ぶらりんにさせておくわけにもいかないので、自らの無骨な手で取った。とその刹那、気づけばそこには小さな庭園が広がっていた。心を落ち着ける暇もないままに、遣水を渡す平橋を、彼女に手を引かれ歩く。沿うように等間隔に並ぶぼんぼりと、見たこともないような虫の放つ光が、夜桜をかすかに照らしていた。

 「見たこともない景色です……これが、天界の景色なのでしょうか」
 「……いえ、地上でも夏が来ればもうすぐこの子たちが見られるでしょう。これは蛍といいます。迷いなき魂は全て、光となって消えゆきます。それを導くのが私の役目なのです」

 彼女が蛍の一つに触れると、それは小さく瞬いて、やがてゆっくりと落ち、水面へと沈んでいった。俺がそれを覗き込む間にも、光はうすぼんやりと揺らぎ、すぐに見えなくなった。

 「蛍は水中で育ちます。かの魂も新たな光となるまでの間を待ちながら、常世を揺蕩うでしょう」
 「……呪いを受けた私たちも、同じでしょうか」
 「朱点の呪いが解けるまでは、あなたたちの魂は彼の干渉下にあります。もし先程のように常世に沈めてしまえば、彼の手は容易にあなた方の光を掴むでしょう」

 それは、俺だけのことを意味しない。いつか遠く、そして近い日に、葵や俺の子らが命を終えたとして、それでもなお俺達は呪いから解放されないということだ。未来永劫に渡って魂を冒涜されることを是とするならば、好きなように生きる事ができよう。他者よりも短い人生とはいえ、神の悠久に比べれば何でもないような命だ。没落した京で困苦に喘ぐ民草と、足りぬ命をああも見、こうも見してやりくりする俺達とでは、天の神々はさしたる違いも見出さないだろう。
 しかし現実は、俺一人の身に降り注ぐものではない。俺が死んだとして、俺の魂は朱点のものとなり、子らに弓引くかもしれないということだ。

 「ですから、私には今もう一つのお役目が与えられています。魂となったあなた方を、悲願が成されるその日まで、この庭園でお守りすること。あなたが亡くなったとて、私が拾い上げて、来たる日までの安寧をお約束いたします」
 「それは、私の子や……もしかしたら、私の孫もお守りいただけるということですか?」
 「ええ、もちろんです。あなたの子も、孫も、その子も。何代後に続いたとしても、私があなた方をお守りいたします」

 何代後も、か。
 それがすでに想定されているということは、俺や葵だけではなく。彼女との子も、そのずっと後の子も。悲願を成すことが出来るかはわからないし、むしろ神々はそう早い解決を期待しているわけですらない、ということだ。木実さんの時も、このお蛍様も。呪いが解けず死ぬことを承知の上で、俺と子を成そうとしているのだ。

 「蛍の光は近づき、離れながら、互いの光を身に受けます。肉体から乖離した邯鄲の夢の中ではありますが、互いの魂に触れあうこともできます」
 「……それは、死んでも魂は消えない、ということなのでしょうか」
 「常世の水面に触れるまでの間です。それこそ、ほんの刹那でしょう」

 ほんの刹那。神から見れば、だろうか。それとも、刹那であることを望む言葉だろうか。

 「私は神などと称しておりますが、本当は水面に触れるのを恐れるだけなのです。弱き魂の一つに過ぎないのです。……今は私も、あなたも、ただ一つの蛍の光。それが交わり一つになれば、また新たな光を生みます」
 「……それが、交神の儀だというのですか」
 「はい。ですから、重ねてお願い申し上げるのです。私に、魂をお開きください。先程の言葉を聞いてもなお、私を軽蔑なさらないのでしたなら」
 「軽蔑など、まさか」

 本心であった。ただ死を恐れる俺と何が変わるだろうか。死を恐れるのは俺だけではないことなど、初めからわかっていた。それでもなお、娘や、娘にかこつけた自分の魂の行き先を気にした。自らの罪を認める一つの魂を前にして、自らの罪深さは照らされるばかりであった。互いに罪人であればこそ、彼女は俺の手を取ってくれるのだと、ようやく合点がいった。

 「それで、言葉遣いを崩せと仰ったのですね」

 彼女は神妙にうなずく。しかし、そうするとまた別の問題が浮かび上がってくる。

「では、お蛍様の方でも、私に敬語など使わぬほうが良いのではありませんか」
「……そんな、私は魂を開く用意などは、できています故……」
「しかし、私が一方的に不躾な言葉を使うというのも、気が引けます」

 そう言うと、彼女は途端に口ごもる。袖で顔を覆ってしまった彼女の肌は、心持ち紅潮しているように見えた。

「……どうか、お許しください。私もまた、こういったことは初めてですし、その……殿方をお誘いするようなこともなく……恥ずかしくてならないのです」

 そこまで言われてしまっては、これ以上強いて言うこともできない。彼女の雰囲気にあてられたか、何かむず痒いような感じがして、この場にいる事ですらも胸が騒ぐように思えた。そして、神も人もそこまで変わらないものなのかもしれないと思った。


 そうして、今度は自分から、彼女の手を取る。小さく震えた気がした。気づけば橋を渡り終えていた。俺はお蛍様の手を引き、彼女の屋敷を見上げた。